2005年 10月 15日
スピリチュアルな30代!? ~雨の日の徒然~ |
雨、雨、雨。
毎日夜のような朝を向かえ、日中もずっと暗いままだ。こんな長雨はニューヨークに来て初めてだと思う。
こう雨が続くと非常に鬱々とする。サマセット・モームの短編「雨」の宣教師の苦悩がわからないでもない。
世界の中では、その宗教や土着信仰によって、こういう自然の出来事を「神の仕業」、「精霊の仕業」、と考える人々がいると聞く。
「神」となると話は別だが、霊とか魂とか、それから輪廻転生とか、以前はそういったことに一切興味がなかったが、30代に近づくにつれそうでもなくなり、30代の今は「ありえるよな」なんて思っている。だって、身の回りで説明できないことって本当にたくさんある。
この何十万、何百万と人がいるマンハッタンで友達とばったり会ったり、
行きたいと思っていて住所をチェックしていなかった店が歩いている途中で突然目の前に現れたり、
マージャンで、「ここでこの牌がきたらすごい」という牌が本当にきたり、
わけもなく特定の場所や物に執着したり、
銀行や学校機関の手続きなどでいい人に当たって処理がスムーズに行くことだって、ニューヨークでは「ミラクル」って感じるよな。(それは別問題か?)
私は、「この人に会えたらいいな」と想像していたら本当に会ったことがあるし、
「デジャブ」なんてしょっちゅうだし(前に来たことを忘れているだけかもしれない)、
星の巡りっていうの、やっぱ自分と誕生日近い人は性格似ていると思うし、
人が死ぬのも生まれるのも、そして女性の体も月のサイクルに関係しているっていうし、
身内が無くなる時はその人が枕元に立つって言うし、実際そういう体験をした人は幾らでもいるし、
夢で全く知らない場所や人が出てきたりするし。
「胸騒ぎ」「虫の知らせ」「シックス・センス(第六感)」もこの類になるのかな。
魂の存在や輪廻転生について「ありえるよな」、と思っているのはもちろん私だけではない。
同世代、またはそれ以上の友人とこの手の話になると、結構みんな「前世療法」あたりを読んでいる。そういう世界に熱狂的に傾倒している、というよりは、「あってもおかしくないよね」と、一種の「悟り」のような感覚だ。それはいろんな経験を踏まえてきたから、徐々に「死」に近づいているからか。
「前世療法」は、アメリカの精神科医が患者への退行療法(催眠術で幼児期のトラウマを見つける方法)を行った際、退行しすぎて前世まで行き着いたことがきっかけとなって書かれた本。
患者が前世について言及したことの「ウラ」をとったら歴史的にも地理的にも事実と一致していたという驚くべき作者の体験がいくつも書かれている。
また、続編の「魂の伴侶-ソウルメイト-」では、前世で共通の体験をした男女二人が、現世で別々の場所に生まれながらも、偶然としか思えない機会が重なり、ついに再会を果たし一緒になれたという、これも作者の患者の例。
人によっては「こんなの作り話なんじゃない?」と言う。私も自分で見聞きしたわけじゃないのでなんともいえないが、もしこれがフィクションだったとしても、このドラマチックなストーリーは面白いと思う。私は「ありえる」くらいの気持ちで読んだが、不覚にも所々で泣かされた。
また、この本を読んだ・読まないは関係なく、来るべき場所に来た、会うべき人に会った、読むべき本に出会った、これは最初から決められていたのでは?などと、過去に思ったことがある人は少なくないだろう。
輪廻転生――ありえるよなあ。
だって、宇宙ってまだまだ謎だらけだよね?輪廻転生はあるという科学的根拠は無いかも知れないけど、無いと断言できる根拠もないよな。
自分の前世って興味あるなあ。男かなあ女かなあ、日本人かなあ、いや動物だったりして。植物とか石とか水とか、そういう「物質」っていうのもありえるわけ?
そういや、友人でライターのアキエダさんは、自書「アイ ラブ ヌーヨーク」の中で自分の前世がマット・デイモン似の男性であったことを書いていたな。ウンチまみれの末に辿り着いた前世の話は面白かった。
私は、この先の自分の行動が縛られるような気がして、サイキックとか前世を確かめるセッションとか、気にはなりつつ結局受けたことがないままだ。しかし、純粋に興味あるな、自分の前世って。
それから、「身近に起きる偶然の出来事も、実はすべて必然なのでは?」とか、「なんだか偶然が繋がっていて偶然とは思えないな」と感じることも結構ある。
例えば、私はブログを書き始めて、書くことが楽しくて、もっと「書くこと」について学んでみたいな、と思っていたら、学校の授業のテーマが「想像・創造する心」として、ヘミングウェイとかスコット・フィッツジェラルドを初めとするさまざまなライターの手法に触れることになった。「これは私のためのプログラムだ!」なんて思ったっけ。
また、私はわけもなく子供の頃から「ギリシャ」に魅かれ、社会人になってようやく旅行を果たしたのだが、気がつけば今、ギリシャ人街のアストリアに住んでいる。それで選んだわけじゃないのに。まじまじ。私の前世はギリシャ人だったりして!?
これらは単なる例。「繋がっている!」って感じた事はまだまだたくさんある。また、その時は気付かなくても、あとで時間が経ってから、「あれとあれは繋がっていたんだなあ」と実感することもある。
こうして、糸と糸が繋がったときに、初めて「運命的!」と自覚するけど、本当は自分の周りにそういう糸の切れ端がいつでも散らばっていて、単に自分が気付いていないだけのような気もする。繋がるのを待っている糸がそこら中にあると思うと、糸の繋がりも「必然」に思えてくる。
私がニューヨークへ来る事も、実は決められていたことなのかな?
悩んで悩んで自分で勇気を出してここへやってきたつもりでも。
ここへ来なければ知ることの無かった歴史。
ここへ来なければ決して会うことの無かった友。
ここへ来なければ見つけることの無かった自分―。
すべては必然の糸が繋がったものなのか?私は何かに導かれたのか?
こうして宇宙とか魂のことを考えると、果てしなく想像が続く。ああ、現に今日の日記もこんなに長くなってしまったではないか。
そして、宇宙の前では、自分の存在や今せかせかやっている毎日がふとちっぽけに思えることがある。……単に目の前の宿題から逃げたいという気持ちもあるんだけど(笑)。
また、魂レベルでは、おそらく人種だの性別だの違いはないだろう。みな一緒だと思うと、今、言葉の壁でコミュニケートできないのがやけに悔しいなあ。……これも、負け惜しみか(笑)。
もう10日間も降り続いているこの雨も、何か意味があるのかな。
精霊たちが泣いているのか、それとも水遊びが楽しくてやめられないのか?
精霊たちよ、お前たちが本当にいるのなら、溢れた水で苦しんでいる人が地上にいるから、もうそろそろ止めてくれないかな?
毎日夜のような朝を向かえ、日中もずっと暗いままだ。こんな長雨はニューヨークに来て初めてだと思う。
こう雨が続くと非常に鬱々とする。サマセット・モームの短編「雨」の宣教師の苦悩がわからないでもない。
世界の中では、その宗教や土着信仰によって、こういう自然の出来事を「神の仕業」、「精霊の仕業」、と考える人々がいると聞く。
「神」となると話は別だが、霊とか魂とか、それから輪廻転生とか、以前はそういったことに一切興味がなかったが、30代に近づくにつれそうでもなくなり、30代の今は「ありえるよな」なんて思っている。だって、身の回りで説明できないことって本当にたくさんある。
この何十万、何百万と人がいるマンハッタンで友達とばったり会ったり、
行きたいと思っていて住所をチェックしていなかった店が歩いている途中で突然目の前に現れたり、
マージャンで、「ここでこの牌がきたらすごい」という牌が本当にきたり、
わけもなく特定の場所や物に執着したり、
銀行や学校機関の手続きなどでいい人に当たって処理がスムーズに行くことだって、ニューヨークでは「ミラクル」って感じるよな。(それは別問題か?)
私は、「この人に会えたらいいな」と想像していたら本当に会ったことがあるし、
「デジャブ」なんてしょっちゅうだし(前に来たことを忘れているだけかもしれない)、
星の巡りっていうの、やっぱ自分と誕生日近い人は性格似ていると思うし、
人が死ぬのも生まれるのも、そして女性の体も月のサイクルに関係しているっていうし、
身内が無くなる時はその人が枕元に立つって言うし、実際そういう体験をした人は幾らでもいるし、
夢で全く知らない場所や人が出てきたりするし。
「胸騒ぎ」「虫の知らせ」「シックス・センス(第六感)」もこの類になるのかな。
魂の存在や輪廻転生について「ありえるよな」、と思っているのはもちろん私だけではない。
同世代、またはそれ以上の友人とこの手の話になると、結構みんな「前世療法」あたりを読んでいる。そういう世界に熱狂的に傾倒している、というよりは、「あってもおかしくないよね」と、一種の「悟り」のような感覚だ。それはいろんな経験を踏まえてきたから、徐々に「死」に近づいているからか。
「前世療法」は、アメリカの精神科医が患者への退行療法(催眠術で幼児期のトラウマを見つける方法)を行った際、退行しすぎて前世まで行き着いたことがきっかけとなって書かれた本。
患者が前世について言及したことの「ウラ」をとったら歴史的にも地理的にも事実と一致していたという驚くべき作者の体験がいくつも書かれている。
また、続編の「魂の伴侶-ソウルメイト-」では、前世で共通の体験をした男女二人が、現世で別々の場所に生まれながらも、偶然としか思えない機会が重なり、ついに再会を果たし一緒になれたという、これも作者の患者の例。
人によっては「こんなの作り話なんじゃない?」と言う。私も自分で見聞きしたわけじゃないのでなんともいえないが、もしこれがフィクションだったとしても、このドラマチックなストーリーは面白いと思う。私は「ありえる」くらいの気持ちで読んだが、不覚にも所々で泣かされた。
また、この本を読んだ・読まないは関係なく、来るべき場所に来た、会うべき人に会った、読むべき本に出会った、これは最初から決められていたのでは?などと、過去に思ったことがある人は少なくないだろう。
輪廻転生――ありえるよなあ。
だって、宇宙ってまだまだ謎だらけだよね?輪廻転生はあるという科学的根拠は無いかも知れないけど、無いと断言できる根拠もないよな。
自分の前世って興味あるなあ。男かなあ女かなあ、日本人かなあ、いや動物だったりして。植物とか石とか水とか、そういう「物質」っていうのもありえるわけ?
そういや、友人でライターのアキエダさんは、自書「アイ ラブ ヌーヨーク」の中で自分の前世がマット・デイモン似の男性であったことを書いていたな。ウンチまみれの末に辿り着いた前世の話は面白かった。
私は、この先の自分の行動が縛られるような気がして、サイキックとか前世を確かめるセッションとか、気にはなりつつ結局受けたことがないままだ。しかし、純粋に興味あるな、自分の前世って。
それから、「身近に起きる偶然の出来事も、実はすべて必然なのでは?」とか、「なんだか偶然が繋がっていて偶然とは思えないな」と感じることも結構ある。
例えば、私はブログを書き始めて、書くことが楽しくて、もっと「書くこと」について学んでみたいな、と思っていたら、学校の授業のテーマが「想像・創造する心」として、ヘミングウェイとかスコット・フィッツジェラルドを初めとするさまざまなライターの手法に触れることになった。「これは私のためのプログラムだ!」なんて思ったっけ。
また、私はわけもなく子供の頃から「ギリシャ」に魅かれ、社会人になってようやく旅行を果たしたのだが、気がつけば今、ギリシャ人街のアストリアに住んでいる。それで選んだわけじゃないのに。まじまじ。私の前世はギリシャ人だったりして!?
これらは単なる例。「繋がっている!」って感じた事はまだまだたくさんある。また、その時は気付かなくても、あとで時間が経ってから、「あれとあれは繋がっていたんだなあ」と実感することもある。
こうして、糸と糸が繋がったときに、初めて「運命的!」と自覚するけど、本当は自分の周りにそういう糸の切れ端がいつでも散らばっていて、単に自分が気付いていないだけのような気もする。繋がるのを待っている糸がそこら中にあると思うと、糸の繋がりも「必然」に思えてくる。
私がニューヨークへ来る事も、実は決められていたことなのかな?
悩んで悩んで自分で勇気を出してここへやってきたつもりでも。
ここへ来なければ知ることの無かった歴史。
ここへ来なければ決して会うことの無かった友。
ここへ来なければ見つけることの無かった自分―。
すべては必然の糸が繋がったものなのか?私は何かに導かれたのか?
こうして宇宙とか魂のことを考えると、果てしなく想像が続く。ああ、現に今日の日記もこんなに長くなってしまったではないか。
そして、宇宙の前では、自分の存在や今せかせかやっている毎日がふとちっぽけに思えることがある。……単に目の前の宿題から逃げたいという気持ちもあるんだけど(笑)。
また、魂レベルでは、おそらく人種だの性別だの違いはないだろう。みな一緒だと思うと、今、言葉の壁でコミュニケートできないのがやけに悔しいなあ。……これも、負け惜しみか(笑)。
もう10日間も降り続いているこの雨も、何か意味があるのかな。
精霊たちが泣いているのか、それとも水遊びが楽しくてやめられないのか?
精霊たちよ、お前たちが本当にいるのなら、溢れた水で苦しんでいる人が地上にいるから、もうそろそろ止めてくれないかな?
by gogo_sally_ny
| 2005-10-15 09:27
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